ルートヴィヒ・ルドルフ(Ludwig Rudolph, 1893年1月9日〜1982年7月14日)は、ドイツのハンブルクで活動した占星術家・出版者です。
アルフレート・ヴィッテの協力者として、ハンブルク学派(英語圏でいう
ウラニアン占星術)の中心文献
惑星図の規則を編纂・刊行し、そのための出版社 Witte-Verlag を興しました。ナチス期の発禁と収容をくぐり抜け、戦後に学派の活動を立て直した人物として、ハンブルク学派の継承に欠かせない存在です。
ヴィッテ出版の伝記によれば、ルドルフは1915年にハンブルクで研究会「ケプラー・ツィルケル」が創設されたとき、創設に加わった中で最年少の学徒で、その書記を務めました。ヴィッテは1919年7月、フリードリヒ・ジークグリューンが率いるこの研究会で初めて自分の方法を公に発表し、そこで後の協力者で出版者となるルドルフと出会っています。1925年10月にはハンブルク学派占星術家協会が設立され、ルドルフはこの協会の代表(Vorstand)も務めました。
1930年代後半からは、ナチス政権による占星術への圧迫が強まります。1936年10月2日、帝国著作院は理由を示さないまま規則集の第3版を発禁とし、1937年1月にはゲシュタポが本を押収しました。1941年、ルドルフ・ヘスの英国への飛行を機に占星術書が禁じられると、ルドルフはハンブルク=フールスビュッテルの警察監獄に収容され、同年6月28日に釈放されています。ヴィッテは同年8月4日に自ら命を絶ちました。1943年には空襲で出版社の在庫が失われましたが、一部の資料は家族の市民農園に隠した穴の中で残りました。
ルドルフの出版活動は、1926年の「Verlag Ludwig Rudolph」に始まります。この版元は、ヴィッテとルドルフの作業用具である度数盤(Gradscheibe)や計算図表(Nomogramm)を頒布していました。1927年11月15日、ルドルフはヴィッテの考え方を正しく伝える版元であることを示すために「Witte」の名を加え、Witte-Verlag として新たに出発します。創業は妻エンマの支えのもとで行われました。
ヴィッテ出版の伝記によれば、1926年の占星術大会のあと、ヴィッテは惑星図の解釈を弟子たちに口述して書き取らせていましたが、1年ほどたっても半分しか集まらず、講義の時間も削られていました。そこでルドルフが一冊の本にまとめることを提案し、作業を任されます。ルドルフはヴィッテの同意のもとで1928年の夏までに規則を集成し、導入部も自ら書いて『Regelwerk für Planetenbilder(惑星図の規則)』として刊行しました。書物として世に出たのは1929年とされます。同じ1928年には、ハンブルクの劇場ドイチェス・シャウシュピールハウスの食堂で開かれていた研究会で、毎月第2・第4月曜日の入門講座を担当しています。1931年の春には、まだ計算機のない時代に、90度と45度のホロスコープを円形の図(円盤)として作り、実務に導入しました。
ミッドポイントと対称の配置を一望するための道具です。
戦後の再建もルドルフの大きな仕事です。1945年8月16日には「Ludwig Rudolph (Witte-Verlag)」の名で登録証を受け、1947年12月27日には、ヘルマン・レーフェルトらとともに協会を「Astrologische Studiengesellschaft (Hamburger Schule)」として再建しました。規則集はレーフェルトが冥王星とジークグリューンの仮想天体を組み込んだ第4版(1946年完成)へと引き継がれ、現行版もルドルフとレーフェルトの名で出ています。
学派の方法についてのルドルフの立場は、ヴィッテ出版が紹介する二つの発言に表れています。1949年6月27日の研究会では、出来事を読むときは原則としてまず既知の天体だけを用い、解釈が必要とするときに初めて仮想天体(トランスネプチュニアン)へ進むべきだと述べました。1978年に出た仮想天体の天体暦(Transneptun Ephemeris)第4版の序文では、ハンブルク学派とは仮想天体を使う方法のことだという理解を、根本的な誤りだとしています。仮想天体をどう扱うかは流派によって前提が違い、その見取り図は
外惑星の扱いの流派差にまとめています。
ルドルフ自身の代表作が『Bedeutung der Planeten in den Häusern(ハウスにおける天体の意味)』です。副題のとおりヴィッテのハウス理論を扱うもので、もとは規則集の第4版に収められた文章でしたが、1950年代末の第5版の際に独立した一冊になりました。英語版『Meaning of the Planets in the Houses』は1984年に出ており(41頁、訳者クルト・クヌプファー)、版元はタイ語・ラトビア語・ロシア語・日本語・エストニア語・英語への翻訳があり、ヴィッテ出版でもっとも多く翻訳された本だとしています。
編者・出版者としては、規則集の各版のほか、英語圏への導入にも関わりました。1930年代の初めには、米国のリチャード・スヴェーラの求めに応じて、ヴィッテの支持のもとで彼を米国における「Uranian System of Astrology」の代表として認めました。スヴェーラが1939年に出した規則集の英訳は、版元が唯一の公認英訳と呼ぶものです。1974年にはクルト・クヌプファーに新たな英訳を依頼しています。1975年に出た英語の季刊誌『Uranian Forum』もルドルフの Witte-Verlag の発行で、第1号には彼の「Alfred WITTE and the Hamburg School」が載りました。
英語版ウィキペディアは、ルドルフが本を保管していたことで規則集が失われずにすみ、戦後のハンブルク学派の教えを伝えるうえでルドルフが要の役割を果たしたとしています。Witte-Verlag は現在もハンブルク学派の文献を出し続けており、2020年の公式改訂版の規則集はルドルフの子孫が改訂を担っています。人物どうしの関係は
現代占星術家マップでも確かめられます。
ハンブルク学派を学ぶとき、ヴィッテの理論だけを見ると、仮想天体の印象が前に出やすくなります。ルドルフの仕事をたどると、規則集の編纂、作業用の円形図の導入、既知の天体を先に読むという手順の強調など、学派の実務がどのように組み立てられてきたかが見えてきます。入口としては、まず
アルフレート・ヴィッテと
惑星図の規則を読み、そのうえで
ミッドポイントの技法を確かめるのが順当です。