レトリウスとは
レトリウス(Rhetorius、ギリシア語 Ῥητόριος)は、6世紀から7世紀初めごろ、初期ビザンツ期に活動したギリシア語圏の占星術家です。「エジプトのレトリウス」と呼ばれますが、生没年も出身地の詳細も伝わっておらず、いずれも不詳です。人物としての記録がほとんど残らない一方で、抜粋が今日まで伝わる最後の古典期占星術家として位置づけられています。
彼の名で伝わるのは、先行する
ヘレニズム占星術の諸技法をギリシア語でまとめた大部の集成です。原本そのものは失われ、後期ビザンツ期に作られた複数の抄録(エピトメー)や抜粋を通じてのみ内容が知られています。
レトリウスの位置づけを一言で表すなら、みずから新しい理論を打ち立てた革新者というより、失われかけていた先人たちの知識を書き写し、まとめ直して次の時代へ引き渡した資料集成者です。彼が残さなければ跡形もなく消えていたであろう技法や著者名が、この集成のおかげで今日の研究の対象になっています。
レトリウスが生きた時代
レトリウスが活動したとされる6世紀から7世紀初めは、ヘレニズム期に築かれた占星術の伝統がギリシア語圏で保たれていた最後の局面にあたります。この時期を境に、ギリシア語で書かれた占星術の新著はほとんど現れなくなり、知識の重心は中世イスラム世界へ移っていきました。
活動年代については研究者の見解が分かれています。デイヴィッド・ピングリーは、集成の第110章に見える601年2月24日のホロスコープを根拠に、7世紀初頭の成立と考えました。これに対しジェームズ・ホールデンは、この図が実在の出生図ではなく原理の説明のために作られた仮設例だとして、より早い時期を主張しています。近年ではレヴェンテ・ラースローも、第110章の図はおそらく説明用の架空例であり、集成が6世紀のうちに完成した可能性は残ると論じています。
さらにラースローは、集成そのものの著者を、5世紀末の東ローマ皇帝ゼノンに仕えた匿名の占星術家とみる説を提示し、レトリウスはその集成が用いた資料の一人だった可能性を挙げています。フランツ・ボル、フランツ・キュモン、ピングリーらが築いてきた通説はレトリウスを著者とみなしてきたので、この点は現在も検討が続いている論点です。
功績と理論
レトリウスの功績は、独自の学説を立てたことではなく、先行する諸著者のテキストを一冊にまとめ、そこでしか読めない記述を後世に伝えた点にあります。とりわけ重要なのが、著作がすべて散逸したアテナイのアンティオコスの伝承です。アンティオコスは1世紀後半から2世紀半ばごろに活動したとされ、『テーサウロイ(宝庫)』『エイサゴーギカ(入門)』などの書名が伝わりますが、原典は残っていません。その内容は、新プラトン主義者ポルピュリオスの引用と、このレトリウスの集成を通じて知られています。
もう一人、集成が保存した著者にバビロンのテウケルがいます。テウケルは活動年代の定かでないヘレニズム期の占星術家で、黄道の各度数や各区分とともに昇る星座を扱うパラナテロンタの記述で知られます。ラースローによれば、集成のなかでは「エジプト人たち」「プナエス」、テウケル、
ドロテウス、
プトレマイオス、
ウェッティウス・ウァレンス、ニカイアのアンティゴノス、
アレクサンドリアのパウルスといった名前が言及されています。
理論面で注目されるのは、ウァレンスの系統に属する技法が生き残っていたことをレトリウスが裏づけている点です。
フォーチュン(幸運のロット)をアセンダントに準ずる起点として扱う手法や、ロットの判断に
セクト(昼夜の区分)を関与させる手法は、その代表例です。また、後期ローマ期の
タイムロード(時の支配星)の諸体系にも触れており、これはのちにペルシア・アラビア・中世ヨーロッパの占星術家たちが大きく展開させていく領域でした。
代表的な著作
代表作は『集成(Compendium astrologicum)』と通称される占星術の総覧です。最もまとまった形で伝わるのは、14世紀初めに書写されたパリ国立図書館ギリシア語写本2425番の第5巻で、「アンティオコスの『宝庫』による、占星術の技全体の説明と叙述」と題され、117章に分かれています。
構成は、まず占星術一般の導入(第1章から第45章)が置かれ、続いて出生図判断の総論(第46章から第60章)、身体と精神に関わる主題(第61章から第76章)、死の状況と栄達(第77章から第81章)、職業や活動(第82章から第96章)、両親(第97章から第102章)、兄弟姉妹(第103章から第108章)と進みます。そのあとに月の配置を扱う数章(第109章から第112章)が続き、末尾の5章は440年に生まれ484年に処刑された人物の出生図を論じた実例章にあてられています。結婚と子ども、友人と敵、旅、寿命の算定、予測技法といった、当時の教本が通常そなえていた主題は現存部分から欠けており、伝わっている本文が完全ではないことをうかがわせます。
校訂は長く部分的なものにとどまってきました。フランツ・ボルが1898年に第1章から第53章を、フランツ・キュモンがそれに続く部分を『ギリシア占星術写本目録(CCAG)』のなかで刊行し、ピングリーも一部を校訂しています。ピングリーは全体の校訂版を30年にわたって準備しましたが2005年に没し、シュテファン・ハイレンが後任の校訂者に指名されました。2020年時点でも、この校訂版はまだ完成していないと報告されています。
現代語訳としては、ジェームズ・ハーシェル・ホールデンによる英訳『Astrological Compendium: Containing his Explanation and Narration of the Whole Art of Astrology』(American Federation of Astrologers、2009年、224ページ)があります。同書にはバビロンのテウケルによる、12サインの性質と七つの天体の性質を論じた小論も併載されています。
同時代・後世への影響
レトリウスの名で伝わる集成は、ヘレニズム占星術と、その後に続くアラビア・中世ヨーロッパの実践とをつなぐ結び目にあたります。
ヘレニズム占星術の技法体系がそのまま断絶していたなら、中世の占星術は別の姿になっていたはずです。
ピングリーは、この集成がエデッサのテオフィロスを介してバグダードの初期中世占星術家たちへ渡り、
マーシャアッラーらに用いられたと論じました。あわせて、テオフィロスの弟子ステファノスが790年ごろに写本をビザンティンへ持ち帰ったとも述べています。ラースローも、アラビア語圏の占星術家たちが中世ペルシア語の中継を経てこの系統の資料を受け取ったこと、集成に含まれる章の一部がサフル・イブン・ビシュルやマーシャアッラー、アブー・アリー・アル=ハイヤートの出生占星術書に対応する形で現れることを指摘しています。
アラビア・イスラム占星術を経由して西欧へ還流した知識の流れのなかで、レトリウスの名そのものはほとんど表に出ません。ラースローは、アラビア語文献に彼の名が見当たらないことを、集成の著者が別人であった可能性の傍証のひとつに数えています。名前が消えたまま内容だけが伝わったという事情は、この時代の占星術文献がどのように受け渡されたかを示す例でもあります。
現代占星術における意義
20世紀後半から進んだ古典占星術の復興のなかで、レトリウスの集成は基礎資料のひとつとして読み直されてきました。プロジェクト・ヒンドサイトをはじめとする翻訳事業が原典を英語で読める形にし、2009年にはホールデンの英訳が刊行されて、現存本文のまとまった通読が可能になっています。
この集成が現代の実践者にとって意味を持つのは、
ウァレンスの系統に属する技法が6世紀まで実際に使われていたと確認できる点にあります。
『アンソロギア(選集)』だけを見ていると、そこに書かれた手法がどこまで一般的だったのか判断しにくいのですが、数百年後の集成が同じ手法を記録していれば、それが孤立した個人の流儀ではなかったと分かります。ロットの扱いやセクトの適用は、その具体例です。
また、ヘレニズム期の理論書と中世の実践書のあいだにある空白を埋める資料として、レトリウスは
古典占星術の系譜を考えるうえでも欠かせません。
クリス・ブレナンの『ヘレニスティック占星術』のような現代の研究書も、この時期の伝承を扱う際にレトリウスの集成を参照しています。
レトリウスを知る意義・学び方
レトリウスを知る意義は、占星術の知識が「誰かが書き写し、まとめ直してくれたから残った」という当たり前の事実に気づける点にあります。生没年も出身も分からない一人の集成者がいなければ、アンティオコスもテウケルも名前すら伝わらなかったかもしれません。技法そのものより、それを伝えた人の手つきに目が向くと、占星術の歴史の見え方が変わってきます。
学ぶ入口としては、まず
ヘレニズム占星術の全体像をつかみ、そのうえで
古典占星術の系譜でヘレニズム期から中世への流れを追うと、レトリウスが立つ位置が見えてきます。集成が保存した技法に関心が向いたら、
フォーチュンと
セクトの事典ページから入り、
タイムロードへ進むとよいでしょう。原典に触れたい場合はホールデンの英訳が現時点で最も手に取りやすく、学術的な校訂と成立事情の議論を追うなら、ラースローの2020年の論文が現在の研究状況を整理しています。
占星術は未来を保証するものではなく、自分の人生を見つめ直すための実践的な地図として、取り入れる価値があります。
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