ベンジャミン・ダイクス(Benjamin N. Dykes)は、中世の占星術文献をラテン語・アラビア語から英語へ訳し続けているアメリカの翻訳者・占星術家です。ペルシア、アラビア、ラテンの占星術書を次々に英訳して自身の出版社カジミ・プレス(The Cazimi Press)から刊行しており、伝統的な占星術を学ぶ英語圏の実践者や研究者にとって、欠かせない翻訳者のひとりになっています。
経歴の出発点は哲学です。イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で哲学の博士号を取得し、イリノイ州とミネソタ州の大学で哲学を教えました。2007年のインタビューでは大学で教えた期間を7年、2010年ごろの紹介文では8年としており、いずれも古代・中世哲学を中心にしていたと紹介されています。占星術は
ロバート・ゾラーのもとで学び、中世占星術のディプロマ(Diploma of Medieval Astrology)を取得しました。公開されている略歴では、ゴールデン・ドーンやウィッカ、セレマといった西洋神秘主義の伝統での儀礼実践の経験が長いことも紹介されています。
現在も公式サイトで翻訳書を販売し、伝統的な出生占星術の講座を開き、世界各地の依頼者のチャートを読んでいます。哲学講座「Logos & Light」も音声教材として提供しています。
ダイクス自身は、いまの時代を占星術の歴史における三度目の大きな翻訳の波と位置づけています。2007年刊行の
グイド・ボナッティ『天文の書』英訳の序文によれば、第一の波は8世紀以降、主にギリシア語の文献がアラビア語に訳された時期、第二の波は11〜12世紀にアラビア語の文献がラテン語に訳された時期です。そして現在、ギリシア語・アラビア語・ヘブライ語・ラテン語の文献が、主に英語へ訳し直されている、とダイクスは述べます。その際、仲介した言語からではなく、もとの言語から直接訳される例が増えていることを、この波の重要な違いとして挙げています。
同じ序文でダイクスは、自分の翻訳を、プロジェクト・ハインドサイトによるヘレニズム期ギリシア語文献の英訳や、チャールズ・バーネット、デイヴィッド・ピングリーらによる中世文献の翻訳と並ぶものと位置づけました。2011年に添えた読者への覚え書きでは、2007年の時点では英訳で読める中世占星術の資料はほとんどなかったが、その後の数年で状況は大きく変わったと書いています。ダイクスはまさにその変化を担った翻訳者のひとりです。
最初の大仕事が、ボナッティ『天文の書(Liber Astronomiae)』の英訳『The Book of Astronomy』(2007年)です。序文によれば、これは同書の近代語への初めての完訳で、1550年版を底本に1491年版で校訂しています。それまでに英語で読めたのは、ヘンリー・コーリーが1676年に第5論考(いわゆる「146の考察」)を抄訳した『Anima Astrologiae』や、ロバート・ハンドとゾラーによる第1〜3論考の訳など一部だけでした。ダイクスはこの訳で全体の約75パーセントが現代の読者にとって新しい内容になると述べています。Skyscript の書評によれば、上下2巻・合わせて約1,600ページの大部な本です。
続いて2008年に『The Works of Sahl and Masha'allah』を刊行し、サフル・イブン・ビシュルとマーシャアッラーの著作をまとめて英訳しました。2010年には『Persian Nativities』第1〜3巻を相次いで出しています。第1巻はマーシャアッラーの『アリストテレスの書』とその弟子アブー・アリーの出生図の判断の書、第2巻はウマル・アル=タバリーとアブー・バクルの出生図の書、第3巻は
アブー・マーシャルのソーラー・リターンの書のラテン語版からの訳です。2013年からは国家や社会の出来事を読むマンデン占星術の文献集『Astrology of the World』を刊行し、アラビア語・ラテン語・ギリシア語の著者による主要なマンデン文献の訳を収めました。
2017年には
ドロテウスの
『カルメン・アストロロギクム』を、ウマル・アル=タバリーによる8世紀のアラビア語版から新たに訳しています。2023年には
フィルミクス・マテルヌスの
『マテーシス』の英訳を刊行しました。公式サイトによれば、詳しい序論と用語集、注釈、100を超える表や図を付け、従来の版が不完全で使いにくいと感じていた学習者に向けて作ったものです。アブー・マーシャルの
『占星術大序説』もアラビア語原典から全訳しています。
翻訳だけでなく、他の訳者の仕事を世に出す編集者・出版者としても動いています。エドゥアルド・グラマグリアが訳した
ヘファイスティオン『アポテレスマティカ』第3巻の英訳は、ダイクスが編集者となってカジミ・プレスから出版し、2013年12月の『The Astrology Podcast』で、この巻が近代語に完全に訳された初めての例として紹介されました。
翻訳では『The Book of Astronomy』(ボナッティ、2007年)、『The Works of Sahl and Masha'allah』(2008年)、『Persian Nativities』第1〜3巻(2010年)、『Astrology of the World』(2013年〜)、『Carmen Astrologicum』(ドロテウス、2017年)、『Mathesis』(フィルミクス、2023年)、『The Great Introduction to the Science of the Judgments of the Stars』(アブー・マーシャル)が主なものです。このほか『The Book of the Nine Judges』や、
アル・キンディーの『四十章』の英訳もあります。
自著には、公式サイトで扱っている『Using Medieval Astrology』と、2011年にカジミ・プレスから刊行した『Traditional Astrology for Today: An Introduction』があります。後者は約140ページの小著で、現代の占星術を学ぶ人や実践家に向けて、伝統的な占星術の歴史、概念、解釈の規則、予測技法、哲学的な考え方などを手短に案内しています。この本は田中要一郎氏の訳で『伝統占星術入門:現代占星術家のための』(太玄社、2019年)として日本語でも刊行されています。2011年の覚え書きでは、自分の翻訳を「Essential Medieval Astrology(EMA)」という叢書として続けていると書いています。
ダイクスの英訳は、それまで一部しか英語で読めなかった中世の文献を、まとまった形で実践者の手に届けました。本事典でも、ボナッティ、ドロテウス、フィルミクス、アル・キンディーの項目がダイクスの訳を参照しています。アル・キンディーの『四十章』は、ホラリーとエレクショナルを扱う書で、公式サイトでは後の時代のアリー・イブン・アル=リジャールやウィリアム・リリーにも使われたと紹介されています。
講演や対談でも、伝統的な占星術の普及に関わってきました。2011年9月にはアメリカ占星術家連盟(AFA)が開いた伝統的占星術の3日間の大会で、デメトラ・ジョージ、クリス・ブレナンとともに講師を務めました。ブレナンの番組『The Astrology Podcast』には、マンデン占星術、ドロテウスの新訳、『マテーシス』の新訳などをテーマに何度も出演しています。師であるゾラーとの関係は、
現代占星術家マップでたどれます。
2007年のインタビューで、ダイクスは自分の実践を「中世の占星術」だと明言しています。中世の占星術のほうが正確で厳密であり、教えやすく学びやすいという考えも示し、占星術が西洋の伝統を手放してほしくないとも語っています。ダイクスの仕事を知ることは、現代の実践の土台にある技法が、どの文献にどう書かれていたのかを確かめる道を知ることでもあります。
日本語で読めるのは『伝統占星術入門』です。まずこの本(原書『Traditional Astrology for Today』)で全体像をつかみ、関心のある分野の英訳へ進むのが近道です。中世の技法全般なら『The Book of Astronomy』、出生図の予測技法なら『Persian Nativities』、社会の出来事なら『Astrology of the World』が入口になります。本事典の
中世の占星術やアラビア・イスラームの占星術の解説とあわせて読むと、各文献の位置づけがつかみやすくなります。