アル・キンディー(Al-Kindi、801年ごろ〜873年ごろ)は、アッバース朝時代のバグダードで活動した哲学者・学者です。生没年には諸説があり、およそ800年から870年の人物として記述されることもあります。南アラビアのキンダ族の家系に生まれ、父イスハークはバスラの総督を務めたと伝えられます。生地はクーファ、没地はバグダードとされます。
彼を語るときにまず挙げられるのが、「アラブの哲学者(アラブ人の哲学者)」という呼び名です。書誌学者イブン・アンナディームは、古代の諸学問に通じた比類のない人物として彼を評したうえで、この呼称を書きとめました。アラビア語の思想史のなかで、自らを「哲学者」と名のった最初の人物として位置づけられています。
その関心はきわめて広く、形而上学・論理学・数学・医学・音楽・光学におよびますが、占星術もその重要な一分野でした。アル・キンディーにとって占星術は、天体が地上に作用する物理的な因果の理論に支えられた合理的な学問であり、哲学の体系の外に置かれるものではありませんでした。
アラビア・イスラムの占星術の歴史を扱うとき、その理論的な土台を用意した人物として彼の名が挙がるのは、この姿勢によります。
アル・キンディーが活動した9世紀前半のバグダードは、ギリシア語の学術文献をアラビア語へ移す大規模な翻訳事業が進んでいた時期にあたります。この都市そのものが、762年にカリフのアル=マンスールのもとで、開始の日取りを星から選んで築かれたと伝えられており、その経緯は
バグダード建設のコラムにまとめています。星を正しく読むために天文学と数学の知識が集められ、それがそのまま翻訳運動を後押しする動機のひとつになりました。
アル・キンディーは、カリフのアル=マームーン(在位813〜833年)とアル=ムウタスィム(在位833〜842年)の庇護を受けました。伝えられるところでは「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」の中心人物のひとりとなり、ギリシア語の科学・哲学文献の翻訳を統括する立場に立ったとされます。研究者は彼のもとに集まった訳者たちを「キンディー・サークル」と呼び、9世紀の二大翻訳集団のひとつに数えています。アル=ムウタスィムの子アフマドの教育にもあたり、主著『第一哲学について』をこの庇護者に献じました。
(本記事の表記はそのままでよい。columns/astrology-baghdad-al-mansur.md 側の「マーシャーアッラー」「アル=ビールーニー」表記を、astrologers ページの「マーシャアッラー」「アル・ビールニー」に揃える対応を検討)アル・キンディーはちょうどその中間に位置し、実践としての占星術に哲学的な言葉を与える役割を担いました。
アル・キンディーの占星術上の功績は、天体が地上の出来事にはたらきかけるという想定を、自然学の因果として説明しようと試みた点にあります。彼は太陽系の描像を
プトレマイオスから受け継ぎ、地球を中心に同心の天球が重なり、そこに月・水星・金星・太陽・火星・木星と恒星が置かれるという構成を採りました。そして、これらの天体を理性を備えた存在とみなし、その円運動は神への従順のあらわれであり、天体は摂理の道具としてはたらくのだと論じています。
その論証の仕方も特徴的です。季節の移り変わりが天体、とりわけ太陽の配置と対応していること、土地ごとに人々の様子が異なることを、天体の作用を示す経験的な手がかりとして提示しました。天と地の対応をたんなる約束事ではなく、観察できる事実から議論しようとする姿勢がここに現れています。
こうした議論の結果として、彼にとって占星術は「物理的な原因の理論に支えられた合理的な学」でした。この構えは、のちに
アブー・マーシャルがアリストテレスの自然学を下敷きに占星術を体系化した仕事と、方向を同じくするものです。理論と実践の両輪という、
イスラム期の占星術の性格は、アル・キンディーの世代に形づくられたといえます。
占星術の分野で最も広く読まれたのが『四十章(キターブ・アル=アルバイーン・バーブ)』です。ラテン語圏では『イウディキア(星々の判断)』の題で知られました。問いを立てて答えを求める
ホラリーと、事を起こす時を選ぶ
エレクショナルの技法を扱い、争訟・紛失物・盗難・旅・結婚・医療・天候・商取引といった主題を章ごとに整理しています。12世紀半ばには、フーゴー・フォン・サンタラとケットンのロバートによって二種のラテン語訳が作られました。ケットンのロバートの訳は、カリンティアのヘルマヌスの求めに応じたものと伝えられます。英訳はベンジャミン・ダイクスによるものがあります。
気象の分野では、天候予測に関する二通の書簡が残されています。ヘリット・ボスとチャールズ・バーネットは、この二通を編集・翻訳した研究書(2000年)のなかで、アラビアの農事暦の伝統・アリストテレス的なギリシアの気象学・占星術という複数の系統を組み合わせた、天候予測の最初期の学術的な文章として位置づけています。
伝えられる著作目録には、ほかに『日食月食の判断について』『アラブの支配とその期間について』『日の選択』『年の回帰について』といった題が並びます。世俗事象を扱うムンデンの系統にあたる主題が含まれている点は、当時の宮廷占星術の関心を映しています。
ラテン語のみで伝わる『デ・ラディイス(星の光線について)』は、あらゆるものが光線を放ち互いに作用しあうという幾何学的な仕組みで自然界の相互作用を説明しようとした論考で、占星術と魔術の理論的な基礎づけとして中世ヨーロッパで読まれました。ただしアル・キンディーの真作かどうかについては疑問が呈されており、近年の研究には帰属を否定する有力な議論があります。本書に言及するときは、この留保を添えるのが妥当です。
同時代の人物との関わりで知られるのが、
アブー・マーシャルとの関係です。伝記的な伝承によれば、両者は激しい論争の関係にありました。当時ハディース学者だったアブー・マーシャルは、アル・キンディーとの対決を通じて、哲学の議論を理解するには数学を学ぶ必要があると確信するにいたり、47歳(832年から833年ごろ)で占星術に転じたと伝えられます。両者を師弟として語る記述も後世にはありますが、伝えられている経緯は論敵としての出会いから始まっています。そのアブー・マーシャルが著した
占星術大序説は、イスラム占星術の標準的な教科書となりました。
後世への影響は、12世紀のラテン語翻訳を通じて西欧へ及びます。『四十章』が二種のラテン語訳を得たことで、中世ヨーロッパの実務家はホラリーとエレクショナルの手引きを手にしました。13世紀の
グイド・ボナッティに代表される大規模な体系書は、こうしたアラビア語文献の蓄積の上に築かれています。
なお、アル・キンディーの晩年は平坦ではありませんでした。カリフのアル=ムタワッキル(在位847〜861年)の時代に立場を失い、打擲を受けて蔵書を一時没収されたと伝えられます。庇護者の交代が学者の運命を左右した時代の一例として記録されています。
現代の古典占星術復興のなかで、アル・キンディーは二つの意味で参照されます。ひとつは技法の資料としてです。『四十章』はホラリーとエレクショナルの初期の体系的な手引きであり、ベンジャミン・ダイクスによる英訳が出たことで、実践者が直接読める文献になりました。中世の判断技法がどこまで具体的に整理されていたかを確かめるうえで、貴重な資料です。
もうひとつは、占星術をどう位置づけるかという問いの先例としてです。天体と地上の出来事の対応を、自然の因果として説明しようとした彼の議論は、同じ問いに向き合った
アル・ビールニーの慎重な態度や、
プトレマイオスが
テトラビブロスで示した自然学的な枠組みと並べて読むことができます。三者の距離の取り方の違いそのものが、占星術史の厚みを教えてくれます。
同時に、『デ・ラディイス』の帰属をめぐる議論は、古典文献を扱うときの心構えも示しています。有名な書名がそのまま著者の思想を代表するとはかぎらないという事実は、一次資料に当たることの大切さを思い出させます。
アル・キンディーを知る意義は、9世紀のバグダードで占星術が、哲学と自然学の言葉で根拠づけられる対象だったと分かる点にあります。実務の技法書と、天体の作用を論じる理論の書が同じ人物の手から出ているという事実は、当時の占星術の輪郭をよく伝えます。その厚みを知ると、占星術を思考の体系のひとつとして落ち着いて受け取れます。
学び方としては、まず
アラビア・イスラムの占星術で時代の見取り図をつかみ、
バグダード建設のコラムで、星を読むことと都市づくりが結びついていた具体例に触れるのがよい順序です。次に
アブー・マーシャルと
アル・ビールニーのページを読み比べると、同じイスラム期のなかにも占星術への距離の取り方に幅があったことが見えてきます。
さらに全体の流れをたどるなら、
古典占星術の系譜コラムでヘレニズムから中世ヨーロッパまでの連なりを確認するとよいでしょう。占星術は未来を保証する技術ではなく、自分を見つめ直すための知の地図として取り入れる価値があります。
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