『マテーシス(Mathesis)』は、4世紀前半のローマ帝国で活動した
ユリウス・フィルミクス・マテルヌス(Julius Firmicus Maternus)がラテン語で著した占星術の大著です。ラテン語の正式な書名は『マテセオス・リブリ・オクトー(Matheseos libri octo)』、つまり「マテーシス八巻」で、書名のとおり全8巻からなります。成立はコンスタンティヌス1世(在位306〜337年)の治世の末期にあたる334年から337年ごろとされます。ただし年代には幅を見る立場もあり、事典類のなかには、長い年月をかけて断続的に書き継がれ、完成はもう少し後だったとする記述も見られます。
本書が際立つのは、ヘレニズム期に積み上げられた占星術の技法体系を、ギリシア語ではなくラテン語で一冊にまとめた点にあります。古代から伝わる占星術文献の多くはギリシア語で書かれており、ラテン語で残るものは限られます。そのなかで本書は、古代のラテン語圏に残された最も長大で網羅的な占星術の便覧として扱われてきました。「古代から現代に伝わったなかで最も包括的な占星術の手引き書」と評されることもあり、西方世界にアラビア語由来の文献が流入する12世紀以前としては、大部の実用書の最後の世代に属します。
著者フィルミクス・マテルヌスは、写本の伝承でシチリアの人(Siculus)と記され、元老院階級に属する高位の人物(vir clarissimus)だったと伝えられます。生没年を確定できる史料は乏しく、コンスタンティヌス1世とその後継者たちの時代に活動したことが分かる程度です。本書はカンパニア属州の総督ロッリアヌス・マウォルティウスに献呈されており、占星術に通じていたこの人物との出会いと励ましが執筆の直接のきっかけになったことが、本文の献辞から知られています。
背景には、
ヘレニズム占星術の長い蓄積があります。紀元前2世紀ごろから地中海世界で形づくられたホロスコープ占星術は、2世紀の
プトレマイオスや
ウェッティウス・ウァレンスの時代に大きく展開し、4世紀にはすでに数世紀分の技法が積み上がっていました。フィルミクスは、その蓄積をラテン語圏の読者に向けて整理する立場に立ちます。本文には、ヘルメスやオルペウス、ネケプソとペトシリスの名に仮託された文献、アスクレピオスに結びつけられた文書といった権威が参照先として挙がっており、それらの多くは今日では失われています。
なおこの著者は、占星術書を著したのち、346年ごろに『異教の誤謬について(De errore profanarum religionum)』をコンスタンティウス2世とコンスタンスに献呈しています。こちらはキリスト教徒としての著作であり、『マテーシス』はそれに先立つ時期に書かれたと考えられています。二つの著作の関係は、著者の経歴をたどるうえでの書誌上の事実として知られています。
全8巻の構成は、原理をめぐる議論から実践の細目へと進む形をとります。第1巻は占星術とは何かを論じ、当時この学に向けられていた批判に答える序論にあてられます。第2巻は基礎概念の巻で、サインやハウス、アスペクトといった枠組みが扱われます。第3巻から第7巻までが判断の実務にあたる部分で、天体の配置、月をめぐる扱い、ロット、アングル、ターム、恒星、さらに誕生の状況や職業、寿命といった主題が順に並びます。最後の第8巻は、各サインを構成する度数と、黄道の外側に広がる星々を扱う「スファエラ・バルバリカ(異邦の天球)」にあてられており、ラテン語で読める古代資料としては貴重な内容を含みます。
本ページは章ごとの逐語的な要約や翻訳ではなく、構成と学説史上の位置づけの紹介にとどめます。そのうえで本書の意義を挙げるなら、第一に、失われたギリシア語文献の内容を間接的に伝える資料としての価値があります。ネケプソとペトシリスの系統やアスクレピオス系の文書に由来する記述には、他の現存資料には見あたらないものが含まれるとされ、ヘレニズム期の技法を復元する作業で繰り返し参照されてきました。第二に、初学者を想定して手順を追う書き方が採られているため、4世紀の実務家がどのような順序で技法を組み立てていたかをたどることができます。
『マテーシス』は、書かれてすぐに広く読まれた書物ではなかったようです。事典類の記述によれば、11世紀ごろまで言及は多くなく、その後に写本を通じて評価が高まり、中世からルネサンスにかけて占星術の主要な参照文献のひとつと見なされるようになりました。
中世占星術の時代には、アラビア語圏を経て伝わった
アブー・マーシャルらの体系書が西方に大きな影響を与えますが、本書はそれ以前から西方に残っていたラテン語の大部の便覧として、別の系統の伝承をつないでいました。
印刷史では、1499年にヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウスが刊行した天文古典の叢書に収められたのが最初の刊本です。この叢書にはマニリウスの『アストロノミカ』やアラトスの『ファイノメナ』なども併載されており、本書がルネサンス期に古典天文学の系譜のなかで読まれたことがうかがえます。近代の校訂としては、W. クロルと F. スクッチュがトイプナー叢書で1897年に前半の分冊を刊行し、K. ツィーグラーが加わって1913年に完結しました。この校訂本が現在も研究の底本として用いられ、原文はデジタル公開もされています。
占星術史のなかで本書を置いてみると、同じヘレニズム期の伝統に連なりながら、
『テトラビブロス』や
『アンソロギアイ』とは性格が異なることが見えてきます。プトレマイオスが自然学による基礎づけを重んじ、ウァレンスが実例の集成を残したのに対し、フィルミクスは技法の全体像をラテン語で通観できる教程として並べました。ドロテウスの『
カルメン・アストロロギクム』がアラビア語訳を経て今に伝わったのとも伝承の経路が違っており、同じ時代の技法が複数の言語と複数の道すじで現代に届いていることが分かります。
現代では、20世紀後半以降の古典占星術復興の流れのなかで、本書の参照される度合いが高まりました。『
ヘレニスティック占星術』をはじめとする現代の研究書で引かれ、ロットやターム、セクトといった古典技法を学ぶ際の一次資料のひとつとして扱われています。2023年には注釈と図表を伴う新しい英訳も刊行され、原典に当たりやすい状況が整ってきました。
古典占星術の系譜のなかでの位置を押さえておくと、後の時代の専門書を読むときの見通しがよくなります。
『マテーシス』を知る意義は、ヘレニズム期に築かれた技法が、ギリシア語だけでなくラテン語でも一冊にまとめられ、西方世界に残されていたと分かる点にあります。ひとつの伝統が複数の言語で書き留められ、別々の経路で受け継がれてきたと知ると、いま自分が手にしている占星術の枠組みが、どれほど厚みのある伝承の上に立っているかが見えてきます。
読むための版としては、ラテン語原文はクロル、スクッチュ、ツィーグラー校訂のトイプナー版が標準です。英訳では、ジーン・リース・ブラム訳『Ancient Astrology: Theory and Practice』(Noyes Press、1975年)が長く参照されてきました。2011年にはジェームズ・ハーシェル・ホールデン訳『Mathesis』(American Federation of Astrologers、ISBN 9780866906197)が刊行され、2023年にはベンジャミン・ダイクス訳『Mathesis』(Cazimi Press、ISBN 9781934586549)が、序論と用語解説、多数の図表を添えた版として加わりました。日本語による完訳は現時点で確認できません。
学ぶ順序としては、まず
著者ページで4世紀という時代の空気を押さえ、次に第1巻と第2巻にあたる原理と基礎の部分から入ると、後半の実務的な記述が読み取りやすくなります。同時代の資料である『テトラビブロス』や『アンソロギアイ』と併読すれば、同じ時代の占星術が一枚岩ではなく、複数の書き方を含む豊かな伝統だったことも見えてきます。占星術は未来を保証するものではなく、自分の来し方と現在地を見つめ直すための地図として、落ち着いて取り入れる価値があります。
無料のホロスコープ計算機で自分のチャートを見る