メディチ家とフィチーノ
ルネサンスのフィレンツェで、占星術と新プラトン主義の一大パトロンとなったのがメディチ家です。コジモ・デ・メディチの庇護のもと、哲学者マルシリオ・フィチーノ(1433〜1499)はプラトンの全集やヘルメス文書をラテン語に訳しました。
フィチーノの主著『三重の生について』(1489年)は、占星術にもとづく医療や、惑星の力を集めるタリスマン、惑星の音楽による養生を説いています。カトリックの聖職者でありながら魔術や占星術を実践した点で、当時は論争を呼びました。後のコジモ1世(トスカーナ大公)は、アウグストゥスに倣って山羊座を自らの紋章に用い、パラッツォ・ヴェッキオを山羊座の装飾で飾らせています。
カトリーヌ・ド・メディシスの占星術師たち
フランス王妃、のちに摂政となったカトリーヌ・ド・メディシス(1519〜1589)は、結婚・戦争・政局の節目に至るまで占星術を意思決定に用いたことで知られます。彼女はノストラダムスを宮廷に招き、フィレンツェ出身の占星術師コジモ・ルッジェーリを長く顧問としました。1564年に国王シャルル9世がノストラダムスを侍医・顧問に任じた記録も残っています。
一方で、ルッジェーリが魔法の鏡で三人の息子全員の即位を予言したといった劇的な話は、伝説の色が濃いものです。ノストラダムスの四行詩がアンリ2世の事故死を予言したとされる逸話も、出来事が起きた後から結びつけられた「後づけ」の可能性が議論されています。
ジョン・ディーとエリザベス1世
イングランドでは、数学者・占星術師のジョン・ディー(1527〜1608/09)が女王エリザベス1世の顧問を務め、女王は彼を「私の哲学者」と呼びました。ディーが戴冠式の日取りを占星術で選び、1559年1月15日としたと広く伝えられますが、これを裏づける同時代の文書は残っておらず、慎重に扱うべき話です。
ディーは当時のイングランド最大の私設図書館を持ち、「大英帝国(British Empire)」という語を初めて用いた人物としても知られています。科学と占星術がまだ地つづきだった時代を、宮廷の知性として体現した人物でした。
宮廷に占星術師がいた理由
ルネサンスの君主たちが占星術師を側に置いたのは、迷信深かったからとは限りません。当時、星の動きを計算できる「数学者」は最先端の知識人であり、暦・航海・医療・政治判断にまたがって助言する存在でした。占星術は、天文学・医学・神学と地つづきの「総合的な知」として宮廷に組み込まれていたのです。だからこそ、フィチーノのように聖職者でありながら占星術を実践する人物も現れました。劇的な予言の逸話に目を奪われがちですが、この時代の占星術を、何より宮廷の知的な営みの一部として捉え直すと、その本当の姿がよく見えてきます。