近世まで、天文学と占星術はまだ一つの営みでした。それを行う人々は「数学者(マテマティクス)」と呼ばれ、星の運行を計算することと、その配置の意味を読むことを、同じ仕事として手がけていました。占星術が大学から切り離されるのは17世紀後半のことで、それ以前のケプラーやガリレオを現代的な意味で「占星術師」と呼ぶには、少し注意が要ります。
ルネサンス期の占星術のページでも触れているように、この時代に天文学を切りひらいた人物の多くは同時に実践的な占星術家でもあり、ティコ・ブラーエやケプラーは宮廷で星の暦と占断を提供しながら観測と計算を続けていました。
ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)は、ティコ・ブラーエの後を継いで、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の帝室付き数学官となりました。その主な職務は、皇帝への占星術的な助言(皇帝や外国の指導者の天宮図を読み、政治的な危機に際して見立てを述べること)でした。ケプラーの手による天宮図は、少なくとも800枚が現存しています。
彼は三十年戦争の将軍ヴァレンシュタインの天宮図も作成し、その性格を描き出したうえで、晩年の危機の時期に警告を与えていました。ケプラー自身は当時の通俗的な占星術には批判的で、擁護と批判の中間に立つ慎重な立場をとった人でもありました。
その立場は著作にも表れています。人物ページ
ヨハネス・ケプラーで紹介しているとおり、彼は『第三者の介入』で、占星術を頭ごなしに退ける天文学者たちへ向けて「産湯とともに赤子を流すな」と訴えました。また伝統的なサインやハウスの規則よりも天体どうしの角度の調和を重んじ、従来の主要アスペクトに加えて新しいアスペクトを複数提唱しました。150度(クインカンクス)や135度は、彼に由来するものとして知られています。
ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)もまた、「数学者」として占星術を職業的に実践しました。パドヴァ大学では医学生に天宮図の作り方を教え、パトロンの天宮図も作成しています。1610年に発見した木星の衛星を「メディチ星」と名づけてパトロンのコジモ2世をたたえ、宮廷での地位を得たのは、いわば占星術的なマーケティングでした。彼の自筆の占星術文書も現存しています。
ただし、ガリレオが占星術を擁護した、あるいは否定したという本人の言葉は、原典では確認できません(
科学革命期の名言を参照)。天宮図を作った事実と、内心の考えは分けて読む必要があります。
フランスのジャン=バティスト・モラン(1583〜1656)は王室付きの占星術師・数学教授で、大著『ガリア占星術』にはルイ14世の天宮図が収められています。モランが正確な出生時刻を得るためにカーテンの陰で産声を聞いた、という有名な逸話のほうは、占星術界の言い伝えであって、一次史料の裏づけは乏しい話です。
確かな遺産は理論のほうです。
ジャン=バティスト・モランの中心にあるのは、ある天体がどのハウスを支配し、どこに位置するかによって、その働きが人生のどの領域へ向かうかを判断する「決定の理論」でした。詳しくは書籍ページ
アストロロギア・ガリカにまとめています。
彼らが占星術を手がけたのは、生活の糧という現実的な理由も大きいものでした。宮廷や大学から支払われる俸給の多くは、暦の作成や天宮図の作製といった「占星術の仕事」への報酬だったのです。ケプラーがグラーツの数学官だった1595年には、その年の天候や農民蜂起、トルコの侵攻を予言して的中させ、名声を得ました。星を計算する技術と、その意味を読む占星術は、彼らのなかで一続きのものでした。後世、「合理的な科学者」という像を守るために、こうした占星術の実践は長く軽視されてきましたが、近年あらためて、科学史の一部として正面から扱われるようになっています。
かつて数学者が引き受けていた天体位置の計算は、いまは計算ツールが受け持ちます。
無料のホロスコープ作成に生年月日と時刻を入れれば、天宮図の骨組みはすぐに手に入り、読み手に残るのは配置の意味を読む仕事です。
このとき、彼らの姿勢はそのまま手本になります。モランのように「なぜこの配置をこう読むのか」を原理から問い、ケプラーのように通俗的な決まり文句をうのみにしない。なお、ケプラーに由来するとされる150度や135度は、
無料のホロスコープ作成では表示されません(表示されるのは合・セクスタイル・スクエア・トライン・オポジションの主要5つ)。