占星術師の慎み:ウィリアム・リリー
17世紀イングランドの占星術師ウィリアム・リリーは、英語で書かれた最初の本格的な占星術大全『キリスト教占星術』(1647年)を残しました。その「占星術徒への書簡」で彼は、占星術師のあるべき姿として、神を畏れ、慎ましく生き、隣人を愛し、敵をも罵らず、すべての人によく生きるよう教え、自ら模範となれ、と説いています(古代のフィルミクス・マテルヌスの倫理的勧告を翻案したものです)。占星術を語る前に、まず語り手の身の処し方を問う。技法よりも先に慎みを置いた言葉です。
「予言者と称するほど愚かではない」:ノストラダムス
予言者として名高いノストラダムスですが、彼自身の言葉は意外にも慎重でした。『息子セザールへの序文』(1555年)では、自分の予言が判断占星術と神の啓示、そして夜ごとの観測と計算にもとづくと述べています。さらに晩年の書簡では、「私はただ予言を試みるだけで、いささかも保証はしない……自分を預言者だと称するほど愚かではない」と、自らの予言に留保を付しています。劇的なイメージとは裏腹に、言い切らない慎重さがあったのです。
罪は星にあらず:シェイクスピア
文学は、星と人間の責任をめぐって鋭い言葉を残しました。シェイクスピア『リア王』で私生児エドマンドは、「これぞ世間のお笑い種だ。我らが運に恵まれぬとき……その災いを太陽や月や星のせいにする」と語ります。しばしば「占星術否定」とされますが、これは自らの過ちを星のせいにする人間の傾向への皮肉であり、占星術師自身が今も戒めるところです(劇中では、嘲笑されたはずの予言がすべて的中する皮肉も仕込まれています)。『ジュリアス・シーザー』の「罪は我らの星にあるのではなく、我ら自身にあるのだ」も、責任の所在を星から人間へと引き戻す言葉です。
言葉を、文脈ごと読む
これらの言葉に共通するのは、星を語りながら、最後は人間の側の責任や慎みに立ち返っている点です。「占星術を否定した」「擁護した」と一言でラベルを貼る前に、その言葉がどんな文脈で発せられたのかを確かめること。星をめぐる名言は、切り取られた一行ではなく、もとの段落のなかでこそ、正しく響きます。
占星術師リリーやノストラダムスが自らの言葉に慎みを添え、シェイクスピアが責任を星から人間へと引き戻したように、星を語る言葉は、しばしば人間の側の謙虚さに立ち返ります。ちなみにシェイクスピアの戯曲には、占星術への言及が100以上あるとも言われます。一行だけを切り取らず、その背景ごと味わうことが、名言と賢く付き合うこつです。