科学革命は占星術の足場を揺るがしましたが、当の科学者たちの言葉は、単純な否定ではありませんでした。最も有名なのが、ヨハネス・ケプラーの「占星術は愚かな娘である。だが、もしこの愚かな娘がいなかったら、その母である極めて理性的な天文学はどうなってしまうだろうか」という一節です(『第三者の介入』1610年)。しばしば「占星術否定の証拠」とされますが、ケプラーが批判したのは“この占星術”=当時の俗流の大衆占星術であり、占星術そのものではありません。彼自身は宮廷占星術師として精緻な占星術を実践し、それを「神の御業の証」とすら考えていました。
辞典の
ヨハネス・ケプラーのページにあるとおり、『第三者の介入』は、占星術を頭ごなしに退ける天文学者たちへ向けた弁明として書かれた本です。つまり「愚かな娘」の一節は、占星術を捨てるためではなく、迷信を取り除いて核心の真理を守ろうとする文脈に置かれています。伝統的なサインやハウスの規則をいったん棚上げし、天体どうしの角度の調和に理論の重心を移した彼の仕事も、この改革の試みの一つでした。同じ一文が、載っている本の性格を知るだけで反対の意味に読めてしまう好例です。
ケプラーの師ティコ・ブラーエは、天体と地上の物質・身体の照応にもとづいて、占星術(特に医療占星術)を擁護しました。彼のエンブレムには「見上げることで、私は見下ろす(Suspiciendo despicio)」という標語が掲げられています。天を仰ぐことで地上を見通す、という占星術的な世界観を一言に込めたものです。ただしティコも、占星術の解釈体系が人によってばらばらなことには懐疑的で、次第に数理天文学へと重心を移していきました。
この標語は、天を測る仕事と地上の意味を読む仕事を一続きのものとみる、当時の感覚をよく伝えています。
科学者が占星術師でもあった時代のコラムにあるように、ケプラーはティコの後を継いで皇帝の帝室付き数学官となり、その主な職務は皇帝への占星術的な助言でした。標語を掲げた師と、その職を引き継いだ弟子のあいだで、測ることと読むことはまだ切り離されていなかったのです。
哲学者フランシス・ベーコンは、占星術を頭から否定せず、「健全な占星術(astrologia sana)」を築くべきだと説きました。占星術を「天体が地上の物体に及ぼす実際の効果」と定義し、錬金術と同じく高貴な目的を持つが、想像に過ぎる部分は矯正・浄化が必要だ、というのです。全否定でも全肯定でもなく、「改革して使えるものにせよ」という立場でした。
定義を「実際の効果」に絞ったこと自体、確かめられる部分と想像に頼る部分を選り分けようとする姿勢の表れと読めます。迷信を取り除いて核を救い出そうとしたケプラーと、立場はよく似ています。信じるか捨てるかの二択ではなく、どこまでを残すかを問う言葉として並べると、二人の発言の輪郭がはっきりします。
一方で注意したいのが、ガリレオ・ガリレイです。彼が実際にホロスコープを作成していたことは、現存する自筆文書から確実です。ただし、彼が占星術を擁護した、あるいは否定したという「一人称の名言」は、原典に確認できません。実践の事実と、内心の信念は別もの。確かな引用がない以上、占星術擁護(または否定)の名言を彼に帰すのは避けるべきです。この時代の科学者の言葉は、こうして一つひとつ出典を確かめながら読む必要があります。
大学で医学生に天宮図の作り方を教えていたことも、前述のコラムに記したとおりです。当時の数学者にとって天宮図づくりは職務の一部でもあったため、作った事実から内心の評価を推し量ると、言っていないことを言わせる危うさが生まれます。
科学者たちの言葉は、「占星術を捨てた人々」という単純な物語には収まりません。彼らの多くは、俗流の占星術を批判しながらも、星と地上のつながりそのものは手放さず、生計のためにも実際に天宮図を作り続けていました。科学革命とは、占星術が一夜で消えた事件ではなく、長い時間をかけて天文学と切り離されていく過程だったのです。