中国・東洋の占星術とは
中国・東洋の占星術は、地中海で生まれた西洋占星術とは独立に、東アジアで発達した星の体系です。土台にあるのは「天人相関」、すなわち天と人とが互いに照応し、天の動きが地上の出来事に表れるという思想でした。具体的な道具立ても西洋とは異なります。たとえば、日付や方位を示す干支(十干と十二支の組み合わせ・約60年でひと巡り)、月の通り道を約28に区切った二十八宿(28の星宿)、生まれた年月日時の干支から運命を読む四柱推命(八字)、そして架空の星を盤に並べる紫微斗数などです。西洋の黄道十二星座(おひつじ座・おうし座…)にあたる枠組みを、東アジアでは二十八宿という別の区分で扱ってきたわけです。これらは皇帝の治世を占う国家の学から、個人の運勢や相性を読む術へと、長い時間をかけて姿を変えていきました。
歴史と時代背景
天文の観測は、暦をつくり農事や祭祀を司る国家の重要事でした。月が星々のあいだを約27.3日でひと巡りすることに対応して整えられたのが二十八宿で、その名が整った形で確認できる最古級の例は、戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓から出土した漆箱とされます。木星(歳星)が約12年で天球をひと巡りする運行は、空を十二に区切る「十二次」や十二支の体系を生む土台となりました。古代の皇帝は、天の主宰者(天帝)から地上を治めるよう命を受けた「天子」と位置づけられ、彗星や日食といった異変は天からの警告と読まれたのです。個人の運命を干支で占う命理学も段階を踏んで発達しました。漢代の『太平経』には生まれ年の十二支で寿命を論じる萌芽がみられ、唐代の李虚中が年・月・日の干支による「三柱」を立て、宋代の徐子平が時刻の柱を加えて「四柱八字」を確立したとされます(この功績にちなみ四柱推命は「子平法」とも呼ばれます)。紫微斗数もまた、宋代の陳摶(陳希夷)や張果に帰せられる占術として伝えられてきました。
西洋占星術との関係・類似点
東西の占星術は、枠組みこそ大きく異なりますが、思いがけない接点も持っています。最もよく知られるのが、二十八宿とインドの「ナクシャトラ」の関係です。一説では、中国で生まれた二十八宿がインドへ伝わり、牛を神聖視する宗教的理由などから牛宿が外れて二十七宿となり、唐代に経典『宿曜経』とともに中国へ「逆輸入」されたとされます(バビロニア由来の要素が介在したとの見方もあり、来歴には諸説あります)。また、木星が約12年で空をひと巡りする運行を区切りに用いる発想は、西洋占星術が木星の周期を重んじる感覚とどこか響き合います。さらに、天の配置に地上の事象を読む「天と地の照応」という根本の発想は、星に意味を見いだす人類共通の態度として、洋の東西を超えて見いだせるものです。ただし、これらは発想の類似や限定的な接触であって、西洋占星術が東洋の体系を直接形づくったわけではない点は、中立に押さえておく必要があります。
この歴史を知る意義
中国・東洋の占星術の歴史を知る意義は、「天と人とが響き合う」という発想が、地中海から遠く離れた東アジアでも独自に育っていたと分かる点にあります。星に意味を読もうとする態度は、洋の東西を超えた人類共通のものでした。異なる文化が別々にたどり着いたこの視点を知ると、占星術を一つの世界観の伝統として、視野広く受け取れます。なお、東西の体系には限定的な接点はあっても、直接形づくり合ったわけではない点は中立に押さえておきます。占星術は運命を当てる装置ではなく、世界と自分の関わりを考えるための地図として、取り入れる価値があります。